大館と奥州平泉の関係を物語る話を今一度!
奥州藤原氏のことは、みなさんもよくご存知だと思う。
最高の栄華を誇った約100年間は、京をも凌ぐ勢いがあった。
それは、平泉近辺の金の産出量が当時日本一だったことに、起因している。
清衡、基衡、秀衡、泰衡の4代(1087~1189)前9年の役から源頼朝に滅ぼされる
時までとされている。源義経との浅からぬ縁は、涙を誘う物語として、現在に
語り継がれている。その、4代泰衡の最後の地がここ大館の二井田なのだ。

なぜここなのか?と言うと 頼朝の軍勢に追われた泰衡は苦渋の決断で、かつての家臣
河田次郎を頼ってこの地まで来たのだ。最初は丁重にもてなしたのだが、
後ろに頼朝の影がちらついて、泰衡をかくまうよりは、泰衡を討って頼朝の恩賞を
受けたほうがよい、と変節!
泰衡は観念して切腹!次郎はその首をはねたのだ。
その後村人達によって、首のない死体は錦の直垂に大事に大事に包まれて、
埋葬されたと言う。
この墓が『にしき様』と呼ばれ、当神社になったのだ。
次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は、逆に泰衡への不忠義者として次郎に
切腹を命じたのだ。頼朝のしたたかさを垣間見た出来事だ。(一石二鳥・・ってが?)
でもその時の村人たちのやさしさには、感動する。
平泉からどんな思いでここまで下ってきたのかを思い、そして討たれた無念さを
思いながら、この『にしき様』の建立。
きっと涙を流しながら、そして、手を合わせながらの埋葬ではなかったのか!
800余年たった今でも毎年慰霊祭が行われている。
余談だが、何年か前のNHK大河ドラマの義経での泰衡役が『渡辺いっけい』
さんだったと記憶する。何でも気持ちが小さく、爪をかむのが癖の役どころ
だった。父,名君秀衡が亡くなって当主となった泰衡の元へ、頼朝からの
「義経を差し出せ~!」との手紙が届くとガタガタ震えていたのを思い出す。
爪をかんで・・・・・
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