
白沢の御前水から見た城ケ森岳(真ん中の高い山)と岩抜山(右)
大館市橋桁地区にある国道7号線のカーブの山
岩抜山
その山にまつわる壮大なエピソードがある。
主人公は、盛岡藩の下斗米秀乃進(しもとまい ひでのしん)
文政4年(1821年)、彼が仲間と一緒に、なんと津軽藩主を討とうとした暗殺未遂事件である。
実は、この裏には100年以上にわたる、津軽藩(弘前藩)と盛岡藩(南部藩)との確執の現
れなのだ。もともと、弘前藩は盛岡藩の家臣であったが、1571年に、初代津軽藩主、津軽
為信「大浦為信」が南部藩の後継者騒動の最中に突然、独立宣言! 津軽と外ケ浜両地域
を治めたのだ。
さらに豊臣秀吉から小田原城攻めの功労を認められ、領有の安堵を得た。これが、そもそ
もの、犬猿の仲になる出来事だった。
その後も、弘前藩は既得権益を積み重ね、南部の領地であった野辺地の鳥打帽岳を幕府
に交渉して自分の領地 に入れてしまったのだ。南部から見れば明らかに、越境行為だが、
論理整然としている弘前藩に反論できず、みすみす渡してしまった。
さらに、9代津軽藩主、津軽寧親(つがる やすちか)が幕府より北方警備(ロシアの南下に
対応するため)を命ぜられる等々、盛岡藩としては家臣のはずの弘前藩が上の地位にいるこ
とが我慢できるはずもあるまい。
秀之進の決意を決定的にした出来事が、1820年に、時の藩主、南部利敬(なんぶ としたか)
が弘前藩への積年の恨みを持ちながら、39歳という若さで亡くなったことだ。
秀之進は勇敢にも、寧親に書簡を送って辞官隠居を勧めた。もしそれが聞き入れない場合
は侮辱の怨を報じ申すべく候、とハッキリと暗殺すると伝えた。
そして、寧親の参勤交代の帰路に討とうと秋田藩の橋桁岩抜山で仲間の、花輪の関良助
らと待ち伏せしていたが、結局、仲間の密告により事前に知れることなり、寧親は、日本海道
を通って弘前藩に帰還したと、言われている。
その後、秀之進は、相馬大作、と名を変え江戸に潜伏するが、弘前藩家臣にとって、捕らえ
られ1821年5月、小塚原の刑場の露と消えたのだ。
何とも、悲しい忠義心の話である。事実このことは、すぐに江戸中に広まり「みちのく忠臣
蔵]ともてはやされて、講談や新作歌舞伎等で取り上げられたという。
廃藩置県で津軽と南部の一部が青森県となったが、今でもそういうわだかまりは解
消されていないらしいという話がまだある。
これは余談だが、今でも双方での嫁のやり取りは御法度とか・・・
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