こんにちは

今日の大館はあまり暑くありません。
12時頃の大館の空です。朝から雨が少~しちらついたりしています。

どんよりしてます・・・・・と 思っていたら やっぱり 雨 です。
みなさん この方をご存知でしょうか?

大館に生まれ育った
往年の名歌手 上原 敏 さんです。
本名 松本力治
明治41年8月26日 大館市(旧大館町)大町、荒物・油問屋「ネリヤ」
の三代目として生まれました。
子供の頃から音楽が好きで、小学校の学芸会では何時も代表で歌っていました。
昭和3年、中学校卒業後には歌手を希望するようになりました。
昭和10年、大学卒業後 わかもと製薬会社に入社 宣伝部に在籍
大学時代には野球で活躍し、野球が縁となりコロナ・レコード 文芸部にいた
大中の先輩 秩父重剛氏の勧めにより歌手へ転向しました。
昭和11年 ポリドール・レコードに入社
歌手として身を立てる為の特訓が始まり、猛烈な練習を見事に克服し、
「恋の絵日傘」で歌謡界に華々しくデビューしました。
昭和12年
「妻恋道中」 が大ヒット。 30歳の時でした。
その後
「流転」 「裏町人生」 と続けざまに ヒットします。
これにより、当時歌謡界の第一人者といわれていた、東海林太郎 と
その人気を二分する程ようになっていました。

髪を四分六にきれいに分け、丸いロイド眼鏡をかけ笑うとエクボが
浮かぶ人なっつこい顔をした 上原 敏 さんの歌は当時の国民の共感を呼び、
広く愛唱されました。
当時は 戦争 という 暗い時代にありました。
戦線の拡大により、多くの将兵が大陸に出征していく中、慰問団が結成され
各方面に派遣されましたが、上原 敏 さんは率先して参加する人であったそうです。
昭和18年4月 上原 敏 に召集令状が下ります。
そして、昭和11年から18年までの約7年間の歌手生活に終わりを告げます。
渋谷の映画館「聚楽」出演中に夫人から召集令状を渡され手にした 敏さんは
ステージから、会場に詰めかけたファンに令状が来たことを報告し、日本男子
として滅死奉公、堂々と戦うことを誓って、残りの時間を声の限り歌ったそうです。
郷里、大館に帰り、壮行会の挨拶で
「大館の皆さん、私は征きます。今までの私上原敏に下さったご声援には、お礼の
申し上げようもありません。今日からは御国を護る一兵士として、一意専心働いてきます。
お別れに一つ歌います。」と、得意の持ち唄「流沙の護り」を声を限りに歌って、出発
しましたが、大館には二度と帰ることはありませんでした。
昭和19年7月29日
ニューギニア戦線にて 没 享年 36歳
参考:大館上原敏の会創立十周年記念誌 歌手 上原敏 彗星のごとく
今日は 「大館上原敏の会 創立30周年記念」
上原 敏 流転己 が開催されました。

今も、ニューギニアに眠っていらっしゃるのかと思うと
なんだか 胸がつまります。
亡くなられて66年
いまだに 多くのファンがいらっしゃいます。
大館には こんな素晴らしい方がいたのかと思うと
とても 嬉しくてしかたありません。
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お名前と、妻恋道中の歌は、知っていましたが、ニューギニアで散られたのは知りませんでした。
まさに日本人であられた事に感動を受けました。
鹿角の御生掛温泉にはよく行きましたが、大館のご出身とは知りませんでした。
次回は歌碑を訪れたいと思います。